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懸想文

国語講師 吉田裕子のエッセイ、歌舞伎観劇メモ、古典作品や長唄・端唄の現代語訳など

佐々木健一『日本的感性 触覚とずらしの構造』(中公新書)のメモ

読書メモ

現代文や小論文の指導をしていて嬉しいのが、幅広い文章に触れられること。今日は、慶應義塾大文学部の小論文(2011年)の素材文が面白くて、幸せでした。

 

日本的感性―触覚とずらしの構造 (中公新書)

日本的感性―触覚とずらしの構造 (中公新書)

 

 

各文化、各個人において、鋭い感性を見せるところと、鈍いところとがあり、この鋭さ鈍さの総体的な分布が個性である、と考えればよい。文化により、個人によって、色彩に関して鋭敏な感性を示しつつ、音については反応が鈍い、ということがあるし、ひとの作品に関して豊かな感性を示す文化もしくは個人が、自然には殆ど関心を示さない、ということがある。(中略) われわれの感性は、外界からの刺戟に応えてわれわれの内部に引き起こされる反響を聴き取る受容体だが、それはひとによって個々に他と異なるような仕方で帯電している。個性的な分布を以て帯電しているわれわれの感性は、感ずる対象を選び取り、独特の反響を起こす。

その帯電の分布すなわち構造は、生来のものであることもあろうが、多くは文化的環境のなかで育まれたものである。そして、個々の文化に固有の感性を考えるなら、それぞれの国語の語彙のシステムとして伝承されるものが重要である。

 

古文単語を教えていると、ことばに息づく感受性を見出すことがあります。現代の感受性とは遠いものもありますが、言葉にこめられた実感をしみじみと味わえる単語も多いのです。

同一の家並みを、旅人と住民は異なったように見る。それぞれが相異なる関心をもっており、その関心の差異に応じて、注目する対象、地点が異なる。注目された部分の空間は濃密なものとなり、無関心な部分は希薄なものとなる。かくして、二人の前に、空間は異なる起伏を見せて立ち上がってくる。

 

西洋の透視図法的な遠近法は、生きている人間の実感を伴う空間とは違う、均質な空間を客観的に描き出します。それに対し、日本的感性では、世界のなかに属するひとに属する形で空間を捉えます。それも、意識的にでなく、自然と感じられるのです。

 

永福門院のうたった空間の特徴は、遠景を捉えるのに、近景を支えとしていることである。近景は視野のなかの身体的圏域とでも呼ぶべきものである。遠景に注目するとき、ただ遠景だけを切り出したのでは、それは望遠鏡で覗いた対象の如きものにすぎず、わたしの居る世界の遠景とは言えない。わたしの世界の遠景となるためには、わたしの視野における遠景とならなければならない。それは、わたしの身体的な近景に呼応するものとして遠景なのである。あるいは、その遠景を含む世界の近景に、わたしが身体的に参与することによって、世界はわたしの世界となり、そこに世界が具体的な視野となる、と言う方が正確であろう。

 

以下も、東大をはじめ、様々な大学で出題されたことで購入した1冊です。感性と理性の両方に訴えかける文章、本当に面白いです。

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