懸想文

国語講師 吉田裕子のエッセイ、歌舞伎観劇メモ、古典作品や長唄・端唄の現代語訳など

『和泉式部集』現代語訳 恋の和歌3首(80-82)

和泉式部集』「恋」より

80「いたづらに身をぞ捨てつる人を思ふ心や深き谷となるらん」
(いたづらにみをぞすてつるひとをおもふこころやふかきたにとなるらん)

訳「むなしくも、恋に我が身を堕としてしまいました。人を想う心は、深い谷となっているのでしょうか」

和泉式部集』恋の巻頭に掲げられた歌でありながら、今日の解釈がさまざまに分かれている歌です。

争点の一つが「いたづらに身をぞ捨てつる人を思ふ。心や深き谷となるらん」「いたづらに身をぞ捨てつる。人を思ふ心や深き谷となるらん」のどちらで区切るのか、です。係り結びなどの文法の関係上はどちらでも差し支えないように思われます。

「恋」の歌に配置されていることを踏まえると、後者の方が、和泉式部らしい、面白い解釈になるのではないかと感じ、上記のように訳しました。このような解釈だとすると、自覚的な完了の「つ」が効果的に響くように思います。
(なお、前者だとすれば、「むなしくも身を捨ててしまった人のことを考える。その人の心は深い谷になっているのだろうか」です。)

「身を捨つ」を「(男が)私(=和泉式部)のことを捨てる」と解釈しているものも見かけましたが、この歌の背景にある「世の中のうきたびごとに身を投げば深き谷こそ浅くなりなめ」を踏まえると、その解釈は難しいように思います。その結論は、「身を捨つ」の語義(「出家する」など不遇な境遇に我が身を置くこと、身を投げ出す、我が身を顧みない)から考えてみても同じです。



81「つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天降り来ん物ならなくに」
(つれづれとそらぞみらるるおもふひとあまくだりこんものならなくに)

訳「ぼんやりと空を見ずにはいられません。愛しいあの人が空から降りてくるようなことはないのにね。」

「空ぞ見らるる」の「るる」は自発。「自然と〜してしまう」「〜せずにはいられない」というニュアンスがよく出ている一首です。



82「見えもせむ見もせん人を朝ごとに起きては向ふ鏡ともがな」
(みえもせむみもせんひとをあさごとにおきてはむかふかがみともがな)

訳「あなたも私を見つめるし、私もあなたを見つめる。そんな、愛しいあなたが、毎朝必ず見る鏡であったらいいのになぁ。(いつもいつも、あなたと見つめ合っていたい。)」

「見えもせむ」の「む」、「見もせん」の「ん」は、ともに婉曲です。(「打消」の「ず」ではありません。) 
なかなか訪れなくなってしまった男性、ではなく、今まさに愛しく思い合っている男性への想いを詠んだ和歌。普通に逢ってはいるのでしょうが、それでは足りないのです。もう片時も離れたくないのでしょうね。