懸想文

国語講師 吉田裕子のエッセイ、歌舞伎観劇メモ、古典作品や長唄・端唄の現代語訳など

矛盾に満ちている。だからこそ歌舞伎はおもしろい ―― 私が歌舞伎に惹かれる理由

 男女問わず、ミステリアスな人間にはつい惹かれてしまう。謎めいた雰囲気が気になって近付いて行くのだが、近付いたところで、ちっとも分かりはしない。しかし、何とか分かりたくて近付き、手がかりを探す。手がかりを1つ、2つ……とかき集め、少しは分かってきたかと思ったら、その手がかり全てをひっくり返すような情報が飛び込んでくる。裏切られた衝撃と同時に、ますますのめり込んでいく。

 私にとって、歌舞伎はそんな存在である。

 上述の通り、私にとっての歌舞伎の魅力とは「大いなる矛盾」である。観劇を重ねたり、台本を読んだりして、少しは分かったような気になることもあるのだが、情報が増えれば増えるほど、「分からない」という感覚も強くなるのである。

 何せ、豪快な荒事も、忠義ゆえの懊悩を描く狂言も、艶やかな舞踊も、どれもが「いかにも歌舞伎らしい」と評されてしまうのである。高尚な伝統文化として讃えられることもあれば、卑俗な娯楽であるところこそが、歌舞伎の特色だと語られることもある。矛盾していること、この上ない。……しかし、そこが面白い。

 矛盾に満ちた歌舞伎の魅力を、いくつかの視点から述べてみたい。

 

【役者と役の関係の矛盾】

 長谷部浩氏は、『菊之助の礼儀』(新潮社)で、「歌舞伎は役の向こう側に、演じる役者の素を見通す演劇である。」と書いた。

 一般に、演技の要諦として言われるのは、「役になり切る」ということである。俳優は台本を読み込み、役を理解し、その心情を体現する存在となるべきとされる。その姿勢は、歌舞伎でも求められている。

 しかし、歌舞伎の愛好者はたいてい、役者を見に行く。どの演目がかかるのかという以上に、誰が出るのかということを気にかける。

「実の親子が親子役を演じるんだねぇ」

「誰々が今回、念願の弁慶を初役だね」

などと言いながら見に来るわけである。早変わりを見せる芝居に至っては、同じ役者がいかに演じ分けるかということを楽しむわけで、役やストーリーでなく、役者が観劇の軸となっている。

 当の役者もこう述べている。

よく考えると、芝居で役を演じている役者、役になり切っている役者に芝居中に役者の名前を大声でよぶ。この行為は芝居をぶち壊すことにならないのでしょうか。役者に迷惑をかけていることにならないのでしょうか。理屈で考えれば、物語を追っているのに、役を演じている役者に役者自身の名前をよぶことは、あり得ないことなのですが、これが成立してしまうのが、まさに歌舞伎。(『演劇界』2013年10月号「染五郎の歌舞伎摩訶不思議」)

 役者が前面に出てくる演劇だからこそ、歌舞伎においては、独特の鑑賞スタンスが生まれる。現代演劇の場合、主たる人物がいれば、それに「感情移入」をして見る観客が多い。しかし、歌舞伎の場合には、役者の存在感が強いだけに、あくまで「見物」という距離感が保たれることが多い。自分の感情が混じる「感情移入」でなく、役者が発するものを受け取る「見物」だからこそ、かえって、純化された感情に胸を打たれ、時に、涙するのである。


【史実の扱いの矛盾】

 歌舞伎には、実名あるいは実名を模した名前で歴史上の人物が登場する作品(『菅原伝授手習鑑』『馬盥の光秀』など)や、実際に起きた具体的なエピソードを元にした作品(『伽羅先代萩』など)が多くある。

 一般に、史実を描く場合、作品の力となるのは何と言っても事実の迫力である。同時代の日常ではなかなか見出し得ない、激動の歴史のドラマである。それ故に「できるだけ正確に」というのが一般的要請であるが、歌舞伎の場合、そう一筋縄ではいかない。

 その背景には、一つに政治的事情がある。幕府の厳しい監視をかいくぐるため、同時代や近い過去の出来事を、鎌倉時代や室町時代に置き換えて表現せざるを得なかったのである。元禄期の赤穂浪士の討ち入りを、室町時代の出来事として描いた『仮名手本忠臣蔵』は、そうした作品の代表であろう。

 しかし、そうした合理的な理由では、説明のつかないものもある。

 例えば、『義経千本桜』である。その作品名にある通り、歴史上の人物 源義経がストーリーに登場し続ける。しかし、あくまで彼は、各場面の脇役に過ぎない。現在でもよく上演される『碇知盛』は「実は平知盛安徳天皇が生きていた」という史実に反する設定をもとに、豊かな想像を膨らませた物語であり、いわゆる『四ノ切』の主役と来たら、鼓となってしまった親を慕う狐である。源義経、そして源平合戦という歴史を素材として利用しながらも、作品の眼目は史実になく、書き手の自由な創作の部分にあるのである。

 歴史性が作品に格式とスケールを与えながらも、作品の味わいの中心は、作者の筆が生み出したオリジナルの人間ドラマにある。これは、「大河ドラマを見ておいたら、歴史の勉強の参考になるよ」などと言われて育った私には、当初なかなか慣れることのできない点であり、今では大いに私を惹き付けている歌舞伎の矛盾の一つである。

 

【人間の矛盾する関心】

 義太夫狂言の三大名作『仮名手本忠臣蔵』『義経千本桜』『菅原伝授手習鑑』の中でも、『菅原伝授手習鑑』の四段目の切である「寺子屋」の場面は、単独でもよく上演されている。

 観劇の動機として有力なものに、日常の気晴らしということがあると思う。そうした娯楽としては、痛快な立ち回りや美麗な舞踊こそがふさわしい。近代になって文壇ではこっぴどく批判された「勧善懲悪」ものの芝居は、娯楽作品として楽しむのにはぴったりである。

 そうであるはずなのに、「寺子屋」のような悲劇も広く好まれている事実が、私にとって興味深い。歌舞伎の場合、多くの観客が話のあらすじを分かった上で見に行くだから、人々はあえて、救いのない、残酷な場面を目撃しに行くわけである。

 人間の一つの本性である悪の側面に対する好奇心はそこまで強いのであろうか。極端に強調された悲劇に涙する中で、日常の鬱憤もともに流されていくのであろうか。

 劇場というハレの空間と、日常というケの空間、その区別の意識も大いに影響していよう。どんな悲劇も、決められた時刻に幕となる。その安心感のもとだからこそ、どこまでも残酷な物語を見ることができるのであろう。(こうした感覚も、余韻を残し、鑑賞者にテーマを考えさせる現代演劇とは一線を画するように思う。)

 歌舞伎の描く、残酷な悲劇に人々が寄せる関心――。その「人々」の一員である私は、観劇を重ねながら、その正体に思いを馳せている。