懸想文

国語講師 吉田裕子のエッセイ、歌舞伎観劇メモ、古典作品や長唄・端唄の現代語訳など

好きな古典和歌3首と自詠3首

第二十二回 文学フリマ東京(2016.5.1 流通センター)に出店してまいりました。

自スペース・チラシ置場にて配布しておりましたチラシに載せた文章をこちらにも転載いたします。


私の好きな、透明感のある和歌 3首


和泉式部「君恋ふる心は千々(ちぢ)に砕くれど一つも失せぬものにぞありける」(『後拾遺和歌集』801)
あなたが薄情なものだから、あなたを恋しく思う心は千々に砕けているけれど、恋心は、ただの一欠片もなくならないものですよ。

恋多き和泉式部ですが、彼女の詠む恋歌はとてもみずみずしく、透明感があります。この歌の「恋ふる心」も、ガラスを思わせますよね。

建礼門院右京大夫「今はただ強ひて忘るるいにしへを思ひ出でよと澄める月影」(『建礼門院右京大夫集』323)
今となっては無理に忘れようとしている昔のことを、思い出しなさい、とばかりに、澄んでいる月の光。

かつて高倉天皇中宮の建礼門院に仕えた彼女が、源平合戦ののち、恋人も亡くした失意の中で、宮中に再出仕したときに詠んだ歌です。

◆西行「ゆくへなく月に心のすみすみて果てはいかにかならむとすらむ」(『山家集』353)
月を見ているうちに、あてもなく心が澄みに澄んでいく。果てには、私の心はどうなろうとしているのだろうか。

入り組んだ題詠歌である「百人一首」の「嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なる我が涙かな」とは違った、実感の歌です。月のルナティックな側面を思わせます。

気に入っている自詠


『裕泉 2016.5』に収めた中から気に入っているものを抜き出しました。

◆たらちねの母にならずはこの命 徒(あだ)ならんやは 空を仰ぎつ
(「母」にならないのであれば、私の命は無駄なものだろうか、いや、そうではないと信じたい。空を見上げた。)

◆ひさかたの天(あま)の星々こぼれけり 右も左も秋の鈴の音
(きっと、天の星々がこぼれたんだなぁ。歩く道の右にも左にも、秋の虫の声が鈴のように鳴り響いているよ。)

◆博愛の「は」の字も持たぬあの人の愛してやまぬ我でありたし
(人の好き嫌いが激しくて、博愛とは程遠い恋人の、愛してやまない私でい続けたいものです。)