授業で『羅生門』を扱ったから感想を140字で書いてみた
タイトルの通りです。
一通り読んだ後、生徒達に感想を書いてもらおうことにしたのですが、あまり字数を多くすると、そのマス目を埋める方法論のほうに意識が向きそうな気がしたんです。
作文術を見たいというよりは、イマの高校生の率直で素朴な感想を聞いてみたいと思い、140字制限で、感想文を書いてもらうことに。
そこで、自分自身も140字感想文を書いてみることにしました。
『羅生門』の老婆や下人の行為をどうとらえるか。これを考えるに当たって浮上してくるのが、悪は絶対的なものか、相対的なものか、という問いだ。一律に「何々をしたら悪です(さらにはどれくらいの悪です)」ということになるのか、それまでの経緯や社会背景による検討・情状酌量の余地があるのか。
— 吉田裕子(語彙力強化ドリル10/8発売) (@infinity0105) September 29, 2016
髪を抜かれている死体の女が、生前やっていたこと(蛇を干し魚として販売)は、現代的に言えば、不当表示であり、詐欺だ。受け手は気づかず、味が良いと喜んでいた、という点は、数年前の食品偽装問題に通じて面白い。企業は安全面で問題はないし、受け手が満足しているのだから良いとしていたわけだ。
— 吉田裕子(語彙力強化ドリル10/8発売) (@infinity0105) September 29, 2016
『羅生門』のような、自身の生命のかかった場面に直面したことはないが、「自己の社会的生存」と「道徳的善悪」との葛藤の経験はある。業務上の指示や目標が、顧客を半ば騙すようなものであったり、顧客から搾取したりする内容だったときだ。指導効果上疑問のある講座を薦め、無益な課題を課すとか……
— 吉田裕子(語彙力強化ドリル10/8発売) (@infinity0105) September 29, 2016
生存自体が目的になるのははなはだしく生物的な感じ。人間はその先を考えるように思う。「なんのために生まれてなにをして生きるのかこたえられないなんてそんなのはいやだ!」とアンパンマンでも歌われる。悪事を働かなければ自分の生存が保たれないとき、「何のために?」という問いは生じるだろう。
— 吉田裕子(語彙力強化ドリル10/8発売) (@infinity0105) September 29, 2016
芥川龍之介は『今昔物語集』に、「生ま生ましさ」「野性」の美しさがあると語った。机上で、観念的なことを操るインテリとは違う、たくましく生き市井の人間。頭でっかちになりがちな帝大生の芥川にとって、新鮮だったのだろうな。哲学・倫理学の理論から導かれる善悪とはまた別の善悪観がここにある。
— 吉田裕子(語彙力強化ドリル10/8発売) (@infinity0105) September 29, 2016
『羅生門』の風景描写から考えてきたのが、当時の夜の深さ。視覚的な闇の暗さはもちろんのこと、人の寄り付かなくなった羅生門の周りには、今からは想像し難い静寂が訪れたのではないか。そのとき、雨の音はひどく抑圧的に響く。服を剥ぎ取られた老婆が裸の身体を起こして覗き込むのは、まさにその夜。
— 吉田裕子(語彙力強化ドリル10/8発売) (@infinity0105) September 29, 2016
盗人にならんとしていた下人は「雨夜の羅生門で死人の髪を抜く老婆」に、瞬時に憎悪の感情を燃やすように、「悪」らしきものへの嫌悪感というのは、生理的、脊髄反射的なものなのだろう。諸々の炎上とか袋叩きとかも、大半は、自分を棚に上げた本能的嫌悪感では? それを理論武装するのはタチが悪い。
— 吉田裕子(語彙力強化ドリル10/8発売) (@infinity0105) September 29, 2016