懸想文

国語講師 吉田裕子のエッセイ、歌舞伎観劇メモ、古典作品や長唄・端唄の現代語訳など

若木仇名草 蘭蝶(お宮口説)の歌詞、現代語訳

『若木仇名草』「部屋(お宮口説)」 通称:蘭蝶
作詞・作曲:初世鶴賀若狭掾(1717-1786)

 

市川屋 蘭蝶(らんちょう)という浮世声色身振師(男芸者)が、榊屋の此糸(このいと)と馴染みを重ね、女房のお宮が体を売って工面したお金まで此糸に費やしてしまう。お宮が此糸に対面し、自分の夫の蘭蝶と別れてくれるように頼むのが、この場面。

 

【歌詞】


言わねばいとどせきかかる
胸の涙の遣る方なさ。
あの蘭蝶殿と夫婦の成り立ち話せば長い
高輪で一つ内に互いに出居衆
縁でこそあれ末かけて
約束かため身をかため世帯かためて落ち着いて
アア嬉しやと思うたは
本に一日あらばこそ
そりゃ誰故じゃ
こなさん故
大事の男をそそなかし
夜昼となく引きつけられ
商売事はうわの空
ひいきで呼んでくださんす馴染みのお客茶屋衆も
来るたびごとにまた留守かと愛想つかされ
後後は呼んでくれても
内証の詰り詰って
私が身を売って渡したその金を
またこなさんに入り上げられ
嬉しかろうかよかろうか
腹が立つやら悔しいやら
喰いつきたい程思うたは
今日まで日には幾度か
その恨みを打ち捨てて
互いのための心底話

 

(拙訳)
言わずにいたら、いっそう気が塞ぐ。こらえている胸の涙の晴らしようの無さ。
あの。蘭蝶殿と私との夫婦の成り立ちを話せば、長い話になります。高輪で、一緒に住んで、お互い、その日稼ぎの出居衆をしております。
前世からの宿縁でありましょうが、一生を誓っての約束を交わして、身を固め、所帯を築いて、落ち着いて、「ああ、嬉しいこと」と思ったのは、本当に一日もあろうはずもない。それは誰のせいって、あなたさんのせいですよ。私の大事な夫をそそのかして。あの人は夜昼となく、あなたに惹きつけられ、商売事は上の空です。あの人を贔屓にして呼んでくださるお客も茶屋衆も、呼びに来るたび、「蘭蝶さんはまた留守か」という状態ですから、愛想を尽かされてしまいました。後々は、お呼びがかかっても、内緒の逢瀬。懐事情が逼迫して、私は体を売るようになりましたが、そうして稼いで渡したお金もまた、あなたさんにつぎ込まれて、嬉しいでしょうか、良いはずがありましょうか、腹が立つやら、嫉妬するやら。噛み付きたいほどに口惜しく思ったのは、今日まで何度あったか分かりません。その恨みをも打ち捨てて、お互いのために、本音で語り合いにきたのです。

 

 

176「身にしみてあはれなるかないかなりし秋吹く風をよそに聞きけむ」(和泉式部集)

和泉式部集』176番

 

身にしみて あはれなるかな いかなりし 秋吹く風を よそに聞きけむ

 

  • 『続後撰和歌集』恋四、『万代集』秋上に採録
  • 詞書: ものいみじう思ふ頃、風のいみじう吹くに (ひどく思い悩む頃、風が激しく吹くので)
  • 秋: 「飽き」との掛詞

 

(しみじみと身にしみて悲しいのだなぁ。どのように暮らしていた秋に、秋風をよそごとのように流していたのだろうか。こんなにも身にしみるものだというのに……)

 

 

「飽き」が暗示しているように、これは相手の心変わりに思い悩む中で詠まれた歌なので、下の句は、「男に飽きられて関係が冷え込んだという話をどうして自分には関係ないことだと思っていたのだろうか、自分だって飽きられてしまうに決まっていたのに……」のように広げて解釈すべきかもしれませんね。

 

恋の始まりの高揚感に満ちていた頃には、まさかこの恋が冷え込むとは思ってもおらず、他の人の恋の終わりをよそごとだと思っていたわけです。でも、よそごとではなかった。自分にもこうして悲しいときが来たわけです。

 

眼前の風物と自身の恋の想いを、技巧的・観念的にではなく、自然に接続していく、和泉式部らしい歌だと思います。

40「朝風に今日おどろきて数ふれば一夜のほどに秋は来にけり」(和泉式部集)

和泉式部集』40番

 

朝風に 今日おどろきて 数ふれば 一夜のほどに 秋は来にけり

 

(あさかぜにけふおどろきてかぞふればいちやのほどにあきはきにけり)

 

朝の風の涼しさにはっとして今日、日付を数えてみたところ、一夜のうちに急に秋が来たんだなぁ。

 

 

かつては、現代よりも、暦を通じて季節を味わっていたのでしょう。旧暦では、四月から六月が夏、七月から九月が秋です。風の涼しさにはっとして、日付を確認したところ、九月一日だったというわけです。今でも立秋の頃(八月七日頃)、朝晩の風の涼しさに驚くことがありますね。

 

同じ秋の訪れとしては、藤原敏行の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」(古今和歌集)と通じるものを感じます。