懸想文

国語講師 吉田裕子のエッセイ、歌舞伎観劇メモ、古典作品や長唄・端唄の現代語訳など

176「身にしみてあはれなるかないかなりし秋吹く風をよそに聞きけむ」(和泉式部集)

和泉式部集』176番

 

身にしみて あはれなるかな いかなりし 秋吹く風を よそに聞きけむ

 

  • 『続後撰和歌集』恋四、『万代集』秋上に採録
  • 詞書: ものいみじう思ふ頃、風のいみじう吹くに (ひどく思い悩む頃、風が激しく吹くので)
  • 秋: 「飽き」との掛詞

 

(しみじみと身にしみて悲しいのだなぁ。どのように暮らしていた秋に、秋風をよそごとのように流していたのだろうか。こんなにも身にしみるものだというのに……)

 

 

「飽き」が暗示しているように、これは相手の心変わりに思い悩む中で詠まれた歌なので、下の句は、「男に飽きられて関係が冷え込んだという話をどうして自分には関係ないことだと思っていたのだろうか、自分だって飽きられてしまうに決まっていたのに……」のように広げて解釈すべきかもしれませんね。

 

恋の始まりの高揚感に満ちていた頃には、まさかこの恋が冷え込むとは思ってもおらず、他の人の恋の終わりをよそごとだと思っていたわけです。でも、よそごとではなかった。自分にもこうして悲しいときが来たわけです。

 

眼前の風物と自身の恋の想いを、技巧的・観念的にではなく、自然に接続していく、和泉式部らしい歌だと思います。

40「朝風に今日おどろきて数ふれば一夜のほどに秋は来にけり」(和泉式部集)

和泉式部集』40番

 

朝風に 今日おどろきて 数ふれば 一夜のほどに 秋は来にけり

 

(あさかぜにけふおどろきてかぞふればいちやのほどにあきはきにけり)

 

朝の風の涼しさにはっとして今日、日付を数えてみたところ、一夜のうちに急に秋が来たんだなぁ。

 

 

かつては、現代よりも、暦を通じて季節を味わっていたのでしょう。旧暦では、四月から六月が夏、七月から九月が秋です。風の涼しさにはっとして、日付を確認したところ、九月一日だったというわけです。今でも立秋の頃(八月七日頃)、朝晩の風の涼しさに驚くことがありますね。

 

同じ秋の訪れとしては、藤原敏行の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」(古今和歌集)と通じるものを感じます。

23「庭のままゆるゆる生ふる夏草を分けてばかりに来む人もがな」(和泉式部集)

和泉式部集』23番


庭のまま ゆるゆる生ふる 夏草を 分けてばかりに 来む人もがな

 

(にはのままゆるゆるおふるなつくさをわけてばかりにこむひともがな)

 

 

庭のかたちのままに生え広がる夏草。それをかき分けるようにして会いに来るような人がいたらなぁ。

 

 

夏草の生命力と、自分を恋うて逢いに来る男の人の情熱とを対照させるような詠みぶりが面白い和歌です。

 

この夏草は観念的なものではなく、眼前の景であったのではないかと思います。目の前の一つ一つの景物に自身の恋を連想するのが、和泉式部らしさではないでしょうか。